原爆投下予定地は長崎ではなく、小倉だった?!
『福岡 地名の謎と歴史を訪ねて』刊行記念。福岡の地名と歴史を訪ねる旅へ【第七回】
◆小倉だけが守られた? その理由とは…
以前、北九州市出身の知人から、同市の小学校では「広島」「長崎」の被爆にかんする平和教育が盛んに行われているとの話を聞いたことがある。アメリカの参謀本部は原爆投下を「広島」「小倉」に予定していたことが、戦後分かったからだ。他に「京都」「新潟」も候補だったが、京都は文化遺産が多いため、新潟は遠くて小さいためといった理由により、除外されていた。
現在の北九州市域( 小倉市・門司市・八幡市・若松市・戸畑市)が、最初にB-29・B-24の四十七機による空襲の被害を受けたのは昭和十九年(一九四四)六月十六日のことだ。これは、アメリカの日本本土への最初の本格的空襲だった。この時は、小倉市も現在の勝山公園にあった陸軍の造兵廠を中心に、多くの犠牲者が出た。
ところが翌二十年八月八日の大空襲では、八幡市・若松市・戸畑市などが甚大な被害を受けたものの、小倉・門司両市には被害がなかった。もっとも、門司市はその年の六月二十九日、七月二日、七月十八日、七月二十一日と、たて続けに空襲を受けており、すでに壊滅的状態だった。
小倉市だけが、なぜか狙われない。市民の間では、
「小倉は神様に守られちょる。小倉に爆弾落とそうとすると雲がかかるんじゃ」
などと、噂する者もいたという(山本巌『昭和史を歩く 福岡県を舞台に』昭和六十二年)。
しかしそれは、違った。原爆投下の効果をより明確にするために、温存されていたのである。
造兵廠があり、十三万もの人口を抱え、平坦な土地に市街地が広がっている小倉は、アメリカが考える「実験台」としての条件が揃っていた。すでに八月六日、広島に原爆が投下されていたが、そのさいも小倉は第二目標として狙われていたのである。
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